「蹴りたい背中」という同名の小説がヒットしたが、一般的使用法としてもこれは敵意や反感を抱いたりした時に発生する強い感情表現であろう。誰しも人には「蹴りたい背中」の一つや二つはある方が普通だろう。なかには蹴りたい背中が崖下に転がらないと気のすまないという物騒な御仁もいるだろうが、まあ、一般的には「ひっぱたいてやりたい」の「けっとばしたい」のといった感情であろう。あるいはもう少し強い感情だろうか。何せ、蹴るというアクションは手で触りたくないほどイヤだという感情表現が含まれる気がするからだ。手で頬をはたいているうちはまだまし、ということか。
ところで「蹴りたい背中」は?と街頭インタビューでもすれば、世間の人々の筆頭になりそうなのは会社のイヤな上司かなんかになりそうな気がする。日本人は外国人に比して、会社の同僚と新橋のガード下などで「蹴りたい背中」の上司を肴にオダをあげるのが大好きである。程度が低すぎる気がするのだが、外国に比し会社が日本人を人生まるごと縛っている証拠なのかもしれない。人間の感情などそう世界中で変わるわけもないからだ。しかし、「蹴りたい背中」が会社の上司であるうちはまだましま気がする。これが「家内」とか「主人」などと言うようになると、洒落にならない。「蹴りたい背中」が家の中をうろうろしているからストレスは一層たまっていき、憎らしい背中は益々「蹴りたい背中」として厚みを増していく気がする。蹴りたい背中も新婚時代には愛でたい背中であったろうに、いつから愛でたくなくなっていくのだろう。
「蹴りたい背中」を持っているあなた、少し考えてみたらどうですか?この結婚生活という時空の中で別物に変化しちまった自分の背中のことを……
2008年04月15日
背中、タトゥー
今日、タトゥーが若者の間で大流行している。見るとシール式に貼りつけたりしたものが多いが、なかには最近その世界でも一般化してきた電動式の「簡便さ」により、本当に肌に彫り込むものもいる。とは言うものの、むかしのヤクザさんの背中のクリカラモンモンと違う点は、やはり圧倒的に腕に彫るのである。Tシャツの袖の下に誰がみてもタトゥーと判るようにワンポイントのように彫るのだ。どちらかというと欧米のそれにデザインも近く、刺青ではなく、やはりタトゥーという印象である。昔、腕などに線を数本組み合わせて彫り込む刑罰としての刺青があり、彼らには金山などでの重労働が課せられたりするが、それに比して背中のタトゥーは自己主張の産物である。半端な遊び心やジョークでは済まない。その証拠に背中一面のタトゥーなど金がかかってしょうがない。昔、背中一面に針をブスブスと刺して彫るタトゥーは電動式のものと違い、一針ごとに血がプツプツと吹き出て背中一面血の海と化していた。針跡だらけの背中に色を刷り込み、さらに仕上げに風呂に入るのである。遊び半分の者なら軽く失神してしまうに違いなく、この激痛に耐えてこそ、自分は堅気の人間とは一線を画したヤクザ渡世の者であるという自負が生まれたのだろう。背中にしても胸にしても、手彫り、電動に限らず、タトゥーは肥満状態で彫ってはならない。メタボリックの状態で腹まで巻きついた背中の龍も、何かの具合で痩せてしまうと龍はミミズのようにしぼんでしまうからだ。靴は朝買うと夕方足が痛くてかなわないので足が最大限大きいときに買ったほうが間違いがないが、タトゥーは痩せてから彫れという。
「元メタボ、背中で泣いてる唐獅子タトゥーは絵にならないねえ!」
「元メタボ、背中で泣いてる唐獅子タトゥーは絵にならないねえ!」
posted by 背中 at 12:11| 日記
2008年04月15日
背中、ニキビ
背中のニキビというのは厄介極まる。顔などであれば鏡を見てひとりで処理がきくわけだが、背中となればそうはいかない。痛がゆかったりするので手をねじって背中に回せばおおよそのばしょの見当はつくのだが、さてその背中のニキビを「正しく」潰そうとするとこれがままならない。ニキビは潰したら痕が残るからダメだと言う人がいるが、「正しく」潰せば痕はめったなことでは残らない。やみくもに何度も何度も中途半端に押しつぶすからニキビ痕になるのである。ニキビをつぶす時は背中にかぎらず完全に膿むのを待ち、膿みきったら中心部に針を刺し、周囲からじわじわと膿を出し切るのである。中途半端な時に押し潰すとニキビの膿が出きらないで、また膿んでしまうが、完全に膿んでしまっていると、そんなに力を入れずともニキビの「芯」から膿が出切るのである。
ところが、再三言うように、これがおのれの背中となるとそうはいかない。人の背中であればたやすいが自分の背中のニキビを前述のようにして潰せる人はいるものではない。ならばどうするかというと、これは爪で引っかいては最悪である。絶対に爪などで背中をひっかいてはならない。「芯」が残ったまま黒ずんだ痕が背中に残る。そうなるともう何年もなかなかとれない。下手をすると一生とれなくなる。背中のニキビは気持ちが悪いが人に見えるところのものではないので、長期戦術をとれるという利点をかんがみひたすら手を出さず我慢をするのみである。そのうち敵は疲労困憊しひとりでに潰れて膿を出し、ひとりでに終息宣言をする。背中のニキビに関してはこれが一番だ。
ところが、再三言うように、これがおのれの背中となるとそうはいかない。人の背中であればたやすいが自分の背中のニキビを前述のようにして潰せる人はいるものではない。ならばどうするかというと、これは爪で引っかいては最悪である。絶対に爪などで背中をひっかいてはならない。「芯」が残ったまま黒ずんだ痕が背中に残る。そうなるともう何年もなかなかとれない。下手をすると一生とれなくなる。背中のニキビは気持ちが悪いが人に見えるところのものではないので、長期戦術をとれるという利点をかんがみひたすら手を出さず我慢をするのみである。そのうち敵は疲労困憊しひとりでに潰れて膿を出し、ひとりでに終息宣言をする。背中のニキビに関してはこれが一番だ。
posted by 背中 at 12:11| 日記
2008年04月15日
背中、病気
病気、とりわけ内臓の疾患は黄色、赤信号を問わず背中に痛みが出る。背中よりもう少し高い部位の肩にも病気の反応点は出るが、ここも広義の背中とする。そうなると、よく肩こりがひどくて、という人がいて、強力なマッサージやマッサージ器やらでないと効かないと自慢するようにその重症ぶりを語る人がいるが、このような人は肩こりが内臓の病気から生じているのを、とんとご存知ないでいる。「背中が最近凝るんだわ!」などと身をよじりながら顔を歪めて言う人も然り。背中に痛みがあれば内臓の精密検査の必要ありの病気だ。暴飲暴食で胃痛になっただけで背中にもくるのだ。肝臓などが病気になると、てきめん裏側の背中の部位に浮き上がりでもしたかのように痛点が現れるのである。だから痛みの裏側というか表側というか、悪い内臓部位に治療を加えて病気が治癒すると、とたんに背中の痛みが消滅する。要するに病気ひとつなく健康状態にあれば背中に痛みなど生じないのだ。肩こりだからと健康器具をいくら買い込んでも内臓の病気には意味がない。その場かぎり痛みがやわらいだ気がするだけで、一晩経てば元の木阿弥。背中に痛みがあるようなら、病気になったから治療をしなさいという体からのメッセージと受け取らなければならない。背中と病気は不即不離の関係にある。
2008年04月15日
背中
背中というのは大小を問わず、その人物の隠された面やその人の置かれた状況やらを語る一要素のように扱われたりする不思議なパーツである。これは何も背中でなくともいいではないかとも思うが、然らば体の後背部において背中のほかに適所があるのかというと、それがなかなか難しい。「あの人の背中が淋しそう……」が「尻が……」「太ももが……」「踵が……」となっては絵にも詩にもならないのは一目瞭然である。
背中というのはハートが「胸部」に存在するという仮定の時に、その感情部分をつかさどるハートを裏側から見透かす、ということで胸の後ろである背中なのではなかろうか。人間、辛くても悲しくても人に向き合う正面の顔には、いくらでも笑みを浮かべられるが、その後ろ姿までは偽れない、ということであり、表面をいくら明るく装っても背中がその暗い状況を物語ってしまうという文学的役割を神話の時代から担わされてきたのである。
背中は肉体そのものであるくせに人の精神を語る部位である。これが「純粋」に肉体としての表現をとるときに、「バックシャン(後ろ姿の美人)」の「♪背中のボタンが留めにくい」の、だから「あなた、留めてちょうだい」とばかり性的な匂いが漂い始め、あげくは「後背位」のといささかジェンダーや性そのものの表現に「堕落」するのだから面白い。
背中というのはハートが「胸部」に存在するという仮定の時に、その感情部分をつかさどるハートを裏側から見透かす、ということで胸の後ろである背中なのではなかろうか。人間、辛くても悲しくても人に向き合う正面の顔には、いくらでも笑みを浮かべられるが、その後ろ姿までは偽れない、ということであり、表面をいくら明るく装っても背中がその暗い状況を物語ってしまうという文学的役割を神話の時代から担わされてきたのである。
背中は肉体そのものであるくせに人の精神を語る部位である。これが「純粋」に肉体としての表現をとるときに、「バックシャン(後ろ姿の美人)」の「♪背中のボタンが留めにくい」の、だから「あなた、留めてちょうだい」とばかり性的な匂いが漂い始め、あげくは「後背位」のといささかジェンダーや性そのものの表現に「堕落」するのだから面白い。